ヘモグロビンの吸収波長は、酸化ヘモグロビン(HbO2)と還元ヘモグロビン(Hb)で明確に異なります。本稿では一次データをもとに、可視域から近赤外域までの吸収スペクトルの違いと、分光イメージングでの応用範囲を研究者・実務者向けに整理します。
結論として、押さえるべき波長は3つの帯域です。第一にソーレー帯(Soret band)で、HbO2は約414nm、Hbは約432nmに最大のピークを持ちます。第二に可視域のα帯・β帯で、HbO2は約542nmと約576nmの二峰性、Hbは約556nmの単峰性を示します。第三に近赤外域で、660nm付近ではHbがHbO2の約10倍吸収するのに対し、800nm弱を境に大小が逆転し、940nmではHbO2のほうが強く吸収します。この逆転点(等吸収点)が約800nmにあることが、パルスオキシメータやNIRSの設計を支えています。
酸化ヘモグロビンと還元ヘモグロビンの吸収スペクトルはどう違うか
ヘモグロビンの吸収スペクトルは、ヘム鉄に酸素が結合しているかどうかで形が変わります。この差こそが、光で酸素化状態を測るという発想の出発点です。以下の数値は、Oregon Medical Laser Center の Scott Prahl がまとめたヘモグロビンのモル吸光係数表(原データは W. B. Gratzer と N. Kollias による測定)に基づきます。単位はいずれも cm⁻¹/M です。
なお本稿で「吸収が強い/弱い」と書くのは、あくまでモル吸光係数の大小です。実際の生体組織では散乱が支配的に効くため、吸光係数の差がそのまま測定信号の差になるわけではありません。この点は後半の「限界と注意点」で改めて扱います。
ソーレー帯(約400〜430nm)— 最も吸収が強いが、最も深く届かない
ソーレー帯とは、ポルフィリン環由来の非常に強い吸収帯で、ヘムタンパク質に共通して見られる紫〜青色領域のピークを指します。前掲データでは、HbO2は414nm でモル吸光係数 524,280、Hbは432nm で 552,160 と、いずれも他の帯域より1桁以上大きい値を取ります。
吸収が極端に強いということは、光がほとんど透過しないということでもあります。そのため、ソーレー帯は微量サンプルの定量や薄い標本の観察には有利ですが、生体組織の内部を見る用途には向きません。染色標本のような薄い試料を扱う場面では、この強い吸収がむしろ利点になります。関連する話題は病理標本を分光イメージングで扱う際に何が定量できるかを整理した記事でも触れています。
α帯・β帯(約540〜580nm)— 形の違いが最も分かりやすい
可視の緑〜黄領域には、Q帯と呼ばれる中程度の吸収帯があります。HbO2ではこれが2つのピークに分裂し、慣例的に長波長側をα帯(約576nm、55,540)、短波長側をβ帯(約542nm、53,292)と呼びます。一方の Hb は分裂せず、約556nm に単一のピーク(54,540)を示します。
この「二峰か単峰か」という形状の違いは、吸光度の大小比較よりも頑健な指標になり得ます。スペクトル全体の形を見るハイパースペクトルイメージングが、2波長方式より有利になり得るのはこの点です。実際、組織酸素飽和度の推定に 500〜650nm 帯を用いる商用システムも報告されています(後述)。
近赤外域(約700〜1000nm)— 吸収は弱いが、大小関係が入れ替わる
近赤外域に入ると、両者の吸光係数は可視域の数十分の一まで落ちます。しかし相対的な差はむしろ利用しやすくなります。660nm では HbO2 が 319.6、Hb が 3,226.56 と Hb が約10倍強く吸収し、940nm では HbO2 が 1,214、Hb が 693.44 と関係が逆転します。Hb は 756nm 付近に小さな肩(1,560)を持ち、HbO2 は 900nm 台に向かって単調に増加し 924nm 付近で 1,227 に達します。
この「吸収は小さいが差は明瞭」という性質が、近赤外を使う生体計測の土台です。次節で見る等吸収点は、この逆転がどこで起きるかを示す座標にあたります。
等吸収点(isosbestic point)はどこにあるか
等吸収点とは、2つの化学種の吸光係数が一致し、混合比が変わっても吸光度が変化しない波長のことです。ヘモグロビンでは、酸素飽和度に依存しない基準波長として使われます。前掲の Prahl のデータ表(2nm 刻み)上で HbO2 と Hb の大小が入れ替わる波長を拾うと、可視域では 約390nm・422nm・452nm・500nm・529nm・545nm・570nm・584nm、近赤外域では 796〜798nm の間に交差点があります。
近赤外の等吸収点は約800nm — ただし文献値は揺れる
文献では近赤外の等吸収点を 800nm とするものと 805nm とするものがあり、値がばらつきます。これはデータセットごとに測定条件(pH、温度、共存する dyshemoglobin など)が異なるためで、どちらかが誤りというわけではありません。前掲データでは 800nm で HbO2 が 816、Hb が 761.72、805nm で 836 と 737.08 なので、交差はもう少し短波長側にあります。
実務上は「約800nm 付近に酸素飽和度に依存しない基準波長がある」と理解し、機器やアルゴリズムが依拠している具体的な吸光係数表を必ず確認するのが安全です。等吸収点を総ヘモグロビン量の基準に使う設計では、この数nmのずれがそのまま系統誤差になります。
波長帯ごとの比較表
波長帯 | HbO2 の吸収 | Hb の吸収 | 主な用途 | 注意点 |
|---|---|---|---|---|
約400〜430nm(ソーレー帯) | 414nm で最大(524,280) | 432nm で最大(552,160) | 薄い標本・微量サンプルの定量、染色標本の分光解析 | 吸収が極端に強く組織深部には届かない。散乱も大きい |
約540〜580nm(α帯・β帯) | 542nm(53,292)と576nm(55,540)の二峰 | 556nm(54,540)の単峰 | スペクトル形状での酸素化状態の識別、表層の組織酸素飽和度の推定 | 侵達深度は概ね表皮〜真皮。メラニンの吸収と重なる |
約660nm | 319.6(弱い) | 3,226.56(約10倍強い) | パルスオキシメータの赤色光側 | 絶対値が小さく、散乱・体動の影響を受けやすい |
約796〜798nm(等吸収点) | 約800(Hb とほぼ同値) | 約780(HbO2 とほぼ同値) | 酸素飽和度に依存しない総ヘモグロビン量の基準波長 | データセットにより 800nm/805nm と記載が揺れる |
約850〜940nm | 1,058〜1,214(Hb より強い) | 691〜693 | パルスオキシメータの赤外光側、NIRS の長波長側 | 940nm 付近から水の吸収(970nm ピーク)が立ち上がる |
約1400nm・1900nm | 水の吸収に埋もれ実質的に見えない | 水の吸収に埋もれ実質的に見えない | 組織水分量の推定 | 透過性がほぼ無くなる。「生体の窓」の外側 |
数値はいずれもOregon Medical Laser Center のモル吸光係数表(単位 cm⁻¹/M)およびHale & Querry (1973) の水の吸収係数データによります。
なぜ700〜900nmが「生体の窓」なのか
「生体の窓(optical window)」とは、生体組織による光の吸収が相対的に小さく、光が深く到達できる波長域を指す呼び名です。文部科学省の光を用いた非侵襲生体診断に関する資料では、ヘモグロビンと水の吸収が弱いことから、およそ 700nm から 2μm までの近赤外光が組織に深く浸透すると説明されています。
短波長側の壁はヘモグロビン、長波長側の壁は水
窓の短波長側を塞いでいるのはヘモグロビン自身です。600nm 以下では HbO2 と Hb の吸光係数がともに1万を超え、赤色光ですら組織を数mm進むうちに大きく減衰します。600nm から 700nm にかけて吸収が急落することで、窓の入口が開きます。
長波長側を塞ぐのは水です。Hale & Querry のデータでは、水の吸収係数は 475nm 付近で 0.000247 cm⁻¹ と極小になり、そこから長波長側へ単調に増えていきます。970nm で 0.45、1200nm で 1.04、1440nm で 28.8、1940nm で 119.83 cm⁻¹ と桁が変わっていきます。組織の大半は水ですから、1400nm 以降ではヘモグロビンの信号は事実上埋もれます。
「窓」の広さは目的によって変わる
前述の資料が示す 700nm〜2μm という範囲は、光が届くという意味での広い定義です。一方、ヘモグロビンの酸素化状態を測るという目的に絞ると、水の吸収が本格的に立ち上がる前の 700〜900nm(機器によっては1000nm付近まで)が実用域になります。同じ「生体の窓」という言葉でも、何を測りたいかで実効的な範囲が変わる点は押さえておきたいところです。
脂質も 930nm 付近と 1200nm 付近に吸収を持ち、皮下脂肪の厚い部位では無視できない寄与を生みます。窓の内側であっても、ヘモグロビンだけが吸収体だと仮定した解析は成り立たない場面があります。
2波長計測からハイパースペクトルイメージングへ
ここまでの吸収スペクトルの性質を、実際の計測手法がどう使っているかを見ていきます。波長数が2から数十・数百に増えるにつれて、何が新しく扱えるようになるのかが論点です。
パルスオキシメータが660nmと940nmを使う理由
パルスオキシメータは、赤色光と赤外光の2波長で拍動成分の減光度比を求め、動脈血酸素飽和度に換算する装置です。応用物理学会が公開したパルスオキシメータの解説コラムでは、添字1が 660nm、2が 940nm を表すと明記され、この2波長で HbO2 と Hb が異なる吸光係数を示すことが原理の前提として説明されています。
波長の選び方は理にかなっています。660nm は Hb が HbO2 の約10倍吸収する「差が最大に開く」点であり、940nm は逆転後に HbO2 が優位となる点です。等吸収点(約800nm)を挟んで両側に1波長ずつ置くことで、酸素飽和度の変化が減光度比の変化として最も大きく現れます。同コラムはさらに、比を取る方式によってLEDの光量差や組織厚の個体差が消去される利点も挙げています。
NIRSと modified Beer-Lambert則 — 光路長が測れないという制約
NIRS(近赤外分光法)は、近赤外光を組織に入射し、拡散して戻ってきた光から HbO2 と Hb の濃度変化を求める手法です。通常の Beer-Lambert 則は散乱のない媒体を前提としますが、生体では散乱によって光路が伸びるため、その効果を項として加えた modified Beer-Lambert 則が用いられます。
ここに本質的な制約があります。島津製作所の光トポグラフィーに関する技術解説では、散乱体が混在する生体では実際に光が通った距離が幾何学的距離より長くなり、連続光方式で得られるのは「初期値からの濃度変化 × 光の通ってきた距離」であって、光路長そのものは測定できないと説明されています。
つまり、連続光NIRSが返すのは絶対濃度ではなく、光路長という未知の係数が掛かった相対変化です。被験者間・部位間で光路長が異なる以上、数値をそのまま比較することはできません。この制約を理解せずに絶対値として扱うことが、NIRSデータの解釈で最も起こりやすい誤りです。
ハイパースペクトルイメージングでどこまで研究されているか
ハイパースペクトルイメージングは、画素ごとに連続した分光スペクトルを取得する手法です。2波長・数波長の点計測と違い、スペクトル全体の形を面として得られるため、ヘモグロビン以外の吸収体の寄与を分離して扱う余地が生まれます。研究段階での応用は着実に広がっています。
たとえば van Manen らは、470〜950nm を41バンドで取得するスナップショット型ハイパースペクトルカメラを用い、健常ボランティア16名で上腕の駆血・再灌流に伴う皮膚の組織酸素飽和度(StO2)の変化を追跡できたと報告しています(駆血時に 78.3% から 60.6% へ低下し、再灌流後にベースラインへ復帰)。解析には modified Beer-Lambert 則とスペクトルフィッティングが使われています(doi:10.21037/qims-21-46)。
また Dietrich らは、周術期モニタリングを目的とした臨床パイロット研究で、商用ハイパースペクトルシステムが算出する4つの指標とその波長帯を報告しています。StO2 が 500〜650nm と 700〜815nm(侵達深度約1mm)、近赤外灌流指標が 655〜735nm と 825〜925nm(同 4〜6mm)、組織ヘモグロビン指標が 530〜590nm と 785〜825nm、組織水分指標が 880〜900nm と 955〜980nm という設計です(doi:10.1186/s13741-021-00211-6)。本稿で見てきた吸収スペクトルの構造が、そのまま波長帯の設計に反映されていることが分かります。
いずれも実現可能性を示す研究段階の報告であり、診断としての確立を意味するものではありません。これらの論文自身が、後述する限界を明示的に記載しています。
私たちはこれまで、食品・農業・インフラ・医療などの現場とともに、ハイパースペクトルカメラの実証を重ねてきました。どの波長帯をどの分解能で取ればよいかは対象によって大きく変わるため、まず条件を一緒に整理するところから始めています。
生体計測で押さえておきたい限界と注意点
ヘモグロビンの吸収波長は明確なデータがある一方、それを生体に適用する段階で複数の不確かさが入り込みます。研究計画や機器選定の前に、少なくとも次の6点は前提として共有しておく必要があります。
散乱が吸収を上回る
前掲の文部科学省資料は、近赤外光に対する生体組織の散乱が吸収よりも10倍以上強いと述べています。観測される減光の大部分は散乱由来であり、そこから吸収情報を取り出す作業には必ずモデルの仮定が入ります。仮定が現実と合わなければ、推定値は系統的にずれます。
光路長が未知である
前節で述べたとおり、連続光方式では光路長が測定できません。差分パスレングス係数などで補正する手法はありますが、その係数自体が部位・年齢・個体で変わります。絶対値の議論をするなら、時間分解や周波数分解といった別方式の検討が必要です。
メラニン・水・脂質の干渉
可視域から近赤外の短波長側にかけては、メラニンの吸収がヘモグロビンの吸収と重なります。van Manen らの研究はアルゴリズムがメラニンの効果を考慮していないことを明記し、Dietrich らの研究も色素の濃い皮膚領域は信頼性のある測定ができないと述べたうえで、被験者が明るい肌色に限られていたことを制約として挙げています。肌の光学特性そのものをどう扱うかは、メラニンや水分を測る装置の分類と研究用途での選び方を整理した記事でも触れています。
表面しか見ていない
Dietrich らが示すとおり、可視域中心の StO2 は侵達深度が約1mm、近赤外の灌流指標でも 4〜6mm です。ハイパースペクトルイメージングは反射光を見る手法であり、得られる情報は表層に強く偏ります。深部の状態を語るには、原理的に別の手段が要ります。
体動アーチファクトと計測条件
スペクトルを取得する間に対象が動けば、画素とスペクトルの対応が崩れます。van Manen らも、生理的変化に伴う変動が解析で十分に考慮できなかったことを制約として挙げています。照明の均一性、白色基準の取り方、露光条件も再現性を左右します。
データセットによる吸光係数の違い
本稿の数値は Prahl がまとめた表に基づきますが、同ページ自身が複数のデータセットの比較を掲載しており、値には差があります。等吸収点の位置が 800nm と 805nm で揺れるのも同じ理由です。定量解析では、どの係数表を使ったかを必ず記録しておく必要があります。
まとめ:波長を決めることが、測れるものを決める
ヘモグロビンの吸収波長は、ソーレー帯(HbO2 414nm / Hb 432nm)、α帯・β帯(HbO2 542nm・576nm / Hb 556nm)、近赤外の逆転(660nm で Hb 優位、940nm で HbO2 優位、境界は約800nm)という3つの構造で整理できます。パルスオキシメータもNIRSもハイパースペクトルイメージングも、この同じスペクトルの異なる部分を切り取っているにすぎません。
逆に言えば、どの波長帯を、どの分解能で、どの深さまで見るのかを決めることが、その計測で何が言えて何が言えないかを決めます。研究用途では、この設計をデータ取得の前に固めておくことが結果の解釈可能性を左右します。
私たちは Milk.株式会社の Invisible World として、国産のハイパースペクトルカメラ irodori を開発し、さまざまな分野で実証を重ねてきました。ハイパースペクトルカメラの基本的な仕組みと irodori の仕様や受賞歴・学術成果を含む実績一覧もあわせてご覧いただけます。装置の仕様や検討中の条件については資料にまとめていますので、比較検討の材料としてお使いください。




